介護保険と同胞社会の未来(中編)
「介 護 保 険 に 関 す る 私 的 小 論」
金 昌 範(キム・チャンボム)
■理想と現実のはざま
社会の高齢化に伴ない、心身のどこかに何らかの不自由さを背負わざるを得ない高齢者が増えることは、しごく当然なことだ。重要なことは、そうして何らかの障害を負ったり、生活上の不自由をきたした人が、その負担を一人で(あるいは家族だけで)背負いこまず、社会全体で分担・軽減し、当事者が社会から切り離されることなく生きられることである。
北欧(スウェーデン・ノルウェー・デンマークなど)で生まれた、そうしたノーマライゼーションの理念は、日本では70年代後期から、主として障害者解放運動が実践し始めた。高齢者の世界でも、そうした考え方が続いて導入され始め、「介護の社会化」を唱う介護保健においても、本来そうした理念が中心に据えられている。しかし、実際には、次のような条件によって、現実との距離がつくられていると言えるだろう。
@制度の準備・策定に際して、公費(歳出)削減の側面ばかりが強調されてきたこと。
A事前から、情報公開がほとんどなく、社会全体での合意が積み上げられないまま施行されたこと。
そして、過去一貫して、医療を除く福祉の諸分野から切り離されてきた(医療についても、もはや福祉の色を失いつつある)在日同胞高齢者こそが、それらのマイナス面での条件を最もかぶっている。
在日同胞高齢者の場合、儒教的慣習からくるある種の閉鎖性(自分の苦労は自分で処理する。身内のしんどい所を人前にさらけ出したくない)に加え、一貫して社会福祉・社会保障から切り離されてきたことによる、行政に対する根強い不信感もしくは身構えが存在する。そして、それらは、介護保健の現場でも如実に現れる。
実際にある1つのケースを想定してみよう。
同胞一世の高齢者夫婦が、知人の勧めで保険を受けるための申請を行う。すると次に来るのは要介護度がどの程度なのかを判断する訪問調査がある。自治体から委託を受けた訪問調査員が訪ねると、普段以上に綺麗に片付けられた部屋で待っていた老夫婦は、例えば「ご自分で立てますか」と質問されると、足の痛みをこらえてでも無理やりに立とうとする場合が多い。ましてや日本語のやりとりに慣れていない一世になると、質問の意味を理解する以前に、何でも「はい、はい」と答えてしまう傾向が強くなる。(生野区では、同席する同胞通訳がいくらか準備されているが…)
そして本人が、仮に何らかの要介護認定を受けて、いざヘルパーが訪ねても、身構えてしまったり、意志疎通ができず、本人に適した介護を受けられなかったり、あるいは介護を拒否するケースすら出てくる。
どんなに素晴らしい理念の下での制度でも、その枠からはじき出される人がいる限り、「社会化」という言葉からは程遠い。大切なことは、問題の克服のためにどの部分を変え、どの部分を生かすかである。
■どの部分を 誰が生かすか
問題山積みの介護保健であるが、うまく利用することで、高齢者の生活改善に充分活用し得る内容も存在する。その中でも、在宅サービスの一角にある「住宅改修制度」は、必要な高齢者にとって比較的使いやすい制度といえるだろう。
その内容を平たく言えば、「要支援」以上の認定を受けた高齢者の日常生活にとって、必要と判断されるケア・マネージャーの意見書があれば、洋式トイレの改修、手すり設置、段差解消や引き戸への付け替え(バリア・フリー)のための費用として20万円まで保険を適用できる制度である。
また大阪市の場合、それらにまつわる改修のため(例えば、トイレ取り替えに伴なう床のはり替え、手すり取り付けのための壁の強化など)に別途30万円までの補助金を受けることができる。(=50万円の住宅改修に、2万円の自己負担で済ますことも可能)
当初、介護保険全般に対してとまどっていたものの、住宅改修の必要性が生じて、始めて介護保険を利用したケースも多い。しかし逆に、制度を知らないために、保険を使わずに住宅改修をしてしまったケースも残念ながらある。
制度の利点を知らないがゆえ、不便さを余儀なくされるケースは、情報に接することが少ない独居高齢者や高齢者夫婦のみの世帯により強く現れる。
前号で私(著者)は、「既存の民族団体が事務所と人材育成のための、より積極的な施策を」と書いたが、それは決して「即座に金を出せ」ということではない。(私たち韓統連も含め)人と情報が行き交いを活性化し、既存の施設を活用することで、高齢者の潜在的要求に、もっと答え得ることを言いたかったのである。特に高齢者のみの世帯が、新しい制度を利用する場合、「窓口に相談に来る」ことを期待するより、高齢者世帯に自ら(働き手が)入っていかないと、利用しやすい状況は生まれにくい。
高齢者のための運動は、従来の運動にも増して、当事者に暖かく密着しないと成立しないだろう。そのことは、私自身が最も肝に銘じておかねばならないことである。
私事で恐縮だが、昨年73歳で逝去した私の父は、長年、C型肝炎を患いながら、死の2ヶ月半前まで生活のために働き続けた。そんな父が、私の転職のたびに口癖のように語っていたのが「何を考えとる!年金(社会保険)のない生活が、どれだけ大変か分かっているのか!」という言葉だった。政治スローガンを好まず、民族的な主張をすることもない反面、常に不自由を感じながら生きてきた父の生き様は、ある意味で同胞一世の生き様のひとつの類型だと言えるだろう。
「なにも、そんなに苦労せんでもええのに」と言っても、それらの一世には、そうした言葉を許さない歴史的、経済的背景が覆っているように思う。せめて同胞一世たちに、なにか喜べるものを返せればと思う。
一方で、現状から私たち次世代の高齢時代を考えると、暗たんたる思いばかりが先走る。
高成長時代が終わり、資本の自由化が横行する中で、弱者は切り捨てられる危機にさらされている。他方、消極的に見ても、弱者切り捨てを防いできた社会保障制度が、「最大のライバル」である社会主義の衰退とともに、社会の片隅に追いやられようとしている。私たちが共同して自らの身を守るための知恵は、一層求められているであろう。
祖国統一による平和な世界の実現を求める一方で、日本に生きる私たちが、ともにお互いの日々を守り合う努力を重ねていくことこそが、後生の生きる社会を保障し、自らも希望ある人生を貫ける道であろうと信じる。
高齢者介護の問題は、そうした努力の一端に過ぎない(了)