●在日同胞のメンタルヘルス
はじめに
私は精神医学ソーシャルワーカー(精神保健福祉士)という職業柄、仕事として精神病や
精神症などの病気を患い、障害を持つ方々とその家族の相談依頼に応じているのですが、依頼者の多くは病気や障害ゆえに生活に大幅な制限を受けて、就労ができないでいる人、つまり貧困の問題をあわせもつ人です。
相談を受け、お話を伺いながら、特に同年輩や年配の方のお話に、その歩んでこられた生活史に共感することが多いようです。その人がライフサイクルのその時々の「危機」(クライシス)をどのように迎え乗り越え、いかに乗り越えられなかったか、そして、発症までの過程とその心理、・社会的要因を考えるとき、個人の持つ資質や病理の問題以上に、この富める日本という国の貧しい社会福祉が、貧困・低所得者層に与える「生き抜いて行けないかもしれない」という「不安」の大きさや、その「不安」が人の精神に深い影を形成していく、つまり社会病理(社会が個人に及ぼす精神への影響)の問題にいつも突き当たるのです。
社会が個人に及ぼす影響の大きさは、功罪と振幅をもちながら、そのライフスタイルを脚色しています。これは普遍的かつ不可能なことです。私たち在日同胞の場合もそうでしよう。そして、私たちが日本に定住する由来と独自の立場性を考えると、その時々に迎える「聞き」の問題もまた独自の背景があるのです。しかし、民族が違い、社会性因的立場の違う、日本人と日本に定住する在日韓国・朝鮮人のそれが同じように認知され、固有の理解をされていないというのが現状ではないでしようか。この事については、社会福祉学の分野でも、精神保健の分野でもしっかりした調査・分析は出ていないようです。
そこで本稿では、人のライフスタイルにおけるメンタルヘルスという観点から、在日同胞がつきあたる固有の問題と、それから生じる「不安」と「危機」について、少し考えてみたいと思います。数回にわけて、時期は@学童期A思春期から青年期B中年期の3つに限ります。
1)学童期のメンタルヘルス
学童期は「精神分析で言われるところのによると、性的リビドーが外界にむかい、物事への関心興味が高まり、よって問題行動はおきにくい安定した時期と考えられます」。確かにこの時期は変化の多い分、心も可否性に富み、発生する諸々の問題も、一過性に終わる事も多いようです。しかし、現代の世相を見ますとそうも言い難く、不登校やいじめの問題をとって考えて見ても、思春期に起こってくる問題の前駆の時期と見た方が実情に見合っているようです。
学童期も後期になると、仲間意識(グループ)が急速に発達し(前期では友達と交わって遊ぶ事ができるかということが主要な課題ですが)、「社会化」が主要な発達課題となってきます。このグループとは自発的な地域集団であり、共通の興味や行動の時間を共有する事に意義が見出され、そこに所属することで子どもたちは居場所を確保し、誇りを培ったりするのです。また、このグループで自分たちの社会的役割、地位の獲得、集団規範への同調、自他の異同の認識、自己尊重、大人からの自立、自己主張、協同と競争、責任と義務などを育成するのです。「対人交流」の基礎を学ぶ場なのだといえます。
また、この時期には、級友たちに対して様々な局面で優越感や劣等感を感じはじめる時期であるということ、自らの出自を自覚しだす時期であるという特徴もあります。
ここで在日同胞の子どもたちの場合を考えて見ましよう。今回は民族学校に通学する子どもと、日本の学校に通う子どもの2つのケースについて考えて見ることにします。
まず民族学校に通う子どもたちの場合ですが、就学という問題を考えるとき、家庭、学校、地域の連携が不可欠であるということはいうまでもありません。しかし、民族学校自体の数の減少化(大阪府下 校)と在日同胞の居住地の分散化傾向が反比例する現状から見て、地域にある民族学校に通学する児童はほんのわずかな人数です。民族学校に通う子どもの多くは、電車・バスを乗り継ぎ、遠くの学校に通っているのです。これは、この子どもたちが自発的な地域集団に属さない学童期をおくるということを指します。放課後の広場から疎外されていると表現することもできます。もちろん通学する学校内で先記の体験は充分になされているであろうと理解できますが、遠距離通学ゆえ級友との放課後・休日の遊びや、対地域との親和性や連携は不充分にならざるをえず、(同胞密集地に暮らす子どもを除き)これは子どもたちの社会化を限定したものにしていくことだと見ることができます。
そして反対語でありますが、私たちが生きるこの社会が、厳然とした差別社会だと考えると、仮に地息での交流がはかられたとしても、社会的良識が定着しない子ども間では、ある意味で残酷な差別やいじめが生じないかとの警戒が常につきまといます。
社会適応能力の育成という点について、スムーズにいかなかった時を仮定してみましよう。社会にうまく適応できなかった場合です。社会に漠然とした「不安」を抱き、しかもそれが避けることのできないものと知ったとき、時として子どもは「不適応」の反応を示し、不登校やとじこもりという状態や、不定 などといった身体の不都合を訴えたりするかもしれません。そして、こういった反応を示すことで、子どもたちは正体不明の「不安」から自らを防御しているのです。(心が無意識のうちに行うこういった作業を「防御メカニズム」といいます)
一般に子どもの「不適応」問題は、@子ども本人A家庭の問題B学校の問題と分別されますが、私たちの子どもの場合を考えるとき、その心理・社会的因子としてC「限定された社会化」の問題をあげる必要があるのではないでしようか。この時期の親との心的距離や親離れといった点においても然りです。疎外された地域での活動を補完するものとして、子どもたちは家庭に(多くは母親に)その代替を求め、過度に親に依存的になる傾向が高くなるとも考えられます。ここでも「分離不安」からくる「危機」は高いといえます。同胞の子どもが持つ「不安」の背景として、初めての社会化が限定されることによって生じる問題が、固有の問題として見えてきます。
次に日本の学校に通う子どもたちのケースです。就学は集団の中での自分の社会的なあり方を最初に知る機会です。小学校も中学年となると心理的には大人びたりと退行が混在します。同胞の子どもたちにとっては、自分が在日韓国・朝鮮人であることを知る(自覚)時です。そう、子どもたちも「私ってなに(なに人?)」と考えはじめ、実存的次元の悩みを持ちはじめるのです。またその心性においても自己を否定的にとらえたり、自己抑制(したくないけどする)(したいけどしない)が発達する時期であることを考えると、自分が韓国・朝鮮人であることをめぐって葛藤をかかえ、その葛藤はフラストレーション的 つ両価的なものであることが予想されます。ここでもやはり「不安」の発生が心配されます。だからこそというべきなのでしようか、こういう時こそ民族への帰属の問題についてコミュニケーション(出会い)が必要となってきます。
ここでいうコミュニケーションの機会や対象は、特に限定される必要はないと思います。民族的な祭りや行事の場への参加でも良いと思うのですが、根底に親の民族感や帰属意識が強く影響すると考えられます。――日本学校の中で奮闘する「民族学級」」の存在意義の大きさを、ここで再確認するとともに、その数(大阪府下 校で設置)の少なさも、また確認しましょう。
では、出会いがない場合を仮定して見ましよう。周辺の誰も民族を教えてくれず、子どもが出自の問題に漠然とした「不安」を抱きつつ、在日韓国・朝鮮人の子どもとしての社会化に必要な適切なコミュニケーションが図られなかったとき、時として子どもは「民族問題」だけでなく、社会に対し回避的となったり、日本人の級友との仲間関係が形成できなかったりと言った「非社会」の問題を抱えてしまう可能性が高いと考えられるのではないでしようか。
「非社会」もまた「不登校」「ひきこもり」という言葉におきかえることができます。ここでも私たちの子どもの前に立ちはだかる「不安」と「危機」が見えてきます。
以上、2つのケースについて記した「不安」は、在日同胞固有の「不安」であり、「危機」の背景を考えることができるのではないでしようか。子どもたちの心の中にまで霧のように子の「不安」が生じ漂うとき、社会に在日の既成世代である私たちにできることは何でしようか?
在日韓国・朝鮮人のメンタルヘルスを考えるときは、我々の立場から見る日本社会との関係性という視点に立ちきることが大切だと考えました。そのため、ある部分にだけスポットをあて、読者のみなさんの不安を煽るようなことを書いてしまったという結果になったかもしれません。また、私たちにできるこれらの問題に対する方策、「危機」にいたらぬための予防策についても考えたいですが、今回はここまでとします。
在日同胞のメンタルヘルス 2
◆思春期から青年期の問題
一般に思春期というと「大人に向かう過渡期で、悩みも多く難しい時期」と考えられています。最近では青少年の事件をマスコミがセンセーショナルに取り上げ、ついに日本政府は「少年法」の改悪までしてしまいました。蛇足となるかもしれませんが、ここで青少年期の心的特性を少し整理してみます。まずは思春期と呼ばれる年齢ですが、概ね12歳から17歳、中学生から高校生の頃をさしていいます。特性の第一に挙げられるのは身体の急激な変化です。この時期は第二期性徴期といわれ、身体像が変化し、性的発達が著しい時期です。クレッチマーという精神学者は「身体と精神発達の心理的平衡が脅かされると思春期危機が生じる」と著し、この時期における身体発達の問題が精神にあたえる影響の大きさを指摘しています。しかし、思春期危機から不適応などの問題をかかえるケースが多いのかというと、案外そうでもなく疫学調査結果では、不適応に至る若者が少ないことを報告しています。しかし、多くの人が実際に経験し理解している通り、この時期が感受性と葛藤の高い時期であることは間違いなさそうです。「自立」と「依存」の葛藤に揺れ、進路を開拓(選択)する能力もまだ不充分で、自身のなさから他者の視線を必要以上に気にかけ、仲間を求めても、その関係の中で疎外感や孤立感に襲われたりもし、可能性が高い分挫折感も持ちやすい、心の軋みが生じやすい時期なのです。そして「青少年は社会を映す鏡」という言葉があるように、社会や時代の影響を大きく受ける時期でもあるのです。
次に青年期ですが、いつの時代も何処の世界においても青年期は危機です。18歳から30歳位までを青年期とすると、この時期に高校生活を終え大学進学をし、または就職をして社会人となり、親から自立して結婚をする。といったようにライフサイクルにおいて、この時期には達成していかなければならない実際的な課題が多く、それ故人生的課題(「自己とはなにか」「自分の生きる意味はなにか」「生きがいはなにか」)を考え出す『青年期特有の実存的悩み』が出てくる時期であるのです。ホールという米国の学者は20世紀初頭に青年期心性の特徴を次のようにまとめています。
@熱心さ、高い興味、知的好奇心と無感動・惰性・知的無関心の交替 A快楽と苦痛、上機嫌とメランコリーの間の振動 B極端な自己中心性と自己卑下との共存 C自己本位と愛他主義、保守主義と過激主義、群居性と排他性の交替 D感性支配と知性支配の間の動揺 賢明さと愚かさとの共存
一世紀前の、しかも米国青年の心的特徴ですが、現代青年のそれと本質的には変わらないように思えます。両極の交替と共存、そしてその間の動揺が著しく、両極どちらかへの揺れはその時代や社会の影響を受け、ぶれていくものなのかもしれません。そして、この青少年期は精神病発症の好発期でもあります。
以上挙げた特性は、身体的(生物的)次元と心理・社会的次元から派生する思春期から青年期心性の特徴です。この部分だけを見ると風土・文化・国や民族の差異に大きく関係せず、ここでは私たち在日同胞固有の「危機」は見えてきません。
◆私たちの「アイデンテティー危機」
思春期から青年期の心的特性の第二に挙げられるのは「自我同一性(アイデンテティー)」の確立を主題にもつ時期であるということです。「アイデンテティー」という言葉は現在ではほとんど口常語となり、職業的アイデンテティー・性的アイデンテティー等、主に自分の証明にかかわる言葉として用いられますが、いまひとつ理解しきれない言葉でもあります。ここでは一つの基準として心理学者のエリクソンが提唱したアイデンテティーの概念にあてはめて理解して見ることにします。
エリクソンは二つの軸でアイデンテティーを定義しました。@生まれてこのかた自分は「一貫した存在」として今日まで生き続けており、さらに今後もその延長上を生きるであろうという自信(実感)。A自分という存在もしくは自分の生き方が、自分の生きているこの「社会によって是認」されているはずだという自信(実感)――(「存在」という単語を「在日韓国・朝鮮人」という言葉に置き換えて見れば理解しやすいのではないでしようか)エリクソンは、こういう二つの軸があってはじめて人間は安定韓をもって生きていけるとしました。
では私たち在日韓国・朝鮮人に、この二つの軸はあるのでしようか?私は同胞内部には、この@の軸は強固にあると考えています。如何に在日同胞社会の動態変化(総数の減少や国際結婚の増加など)が伝えられていても、周囲を見渡せば親の代からの人間関係が引き継がれ、風習・伝統を守り、自分の子にそれを伝えている「生活と伝統と文化の継承者」は大勢います。また、日本政府の厳しい同化帰化政策の下、市井の差別・排外状況が常に私たちの「民族的アイデンテティー」を脅かし続けていても、この2・30年の間に私たちは在日同胞(海外勢力)としての独自の立場を生かし、教育・文化・政治の分野で確実な成長と力を発揮し続けてきました。民族文化祭・統一マダンをはじめとした行事が、大規模なものから小規模のものまでが日本の各地で開かれる。公立高校に設置されている韓・朝問研が継承される。学生・青年組織が同胞啓蒙的な活動を日常的に展開している。10年前には、海外同胞団体が分断歴史上初めて南・北・海外の合同統一行動を提案、実現していった。以上挙げたものだけ見ても、各分野での「同胞民族力」ともいうべき力量は、相当なものがあると言えるのではないでしようか。
私たちが日々営む生活の中の民族的であろうとする努力(ささやかなものも含めて)が、@を確実に形成してきたし、これからも保証していくのです。
問題はAの「社会による是認」です。ここでは社会は即ち日本社会を指しますが、考えれば皮肉なことに、
私たちが@を確実で強固なものにすればするほど日本社会との文化摩擦的な局面は広がります。政治軋轢も生じAが否定されるのです。このことを端的に示すものとして、記憶に新しい「在日外国人に参政権をあたれることに反対する国会議員の会」の 議員の「 」発言がありました。歴代政治家の朝鮮半島に対する問題発言は枚挙にいとまなく、マスコミの北部祖国に対する敵対報道は、公共の電波を通して日本人のみならず在日同胞までも洗脳する勢いがありました。これまでと現在の日本社会は、私たちの存在と生き方を是認しようとはしていないのです。
私たち定住外国人にとっての「民族的アイデンテティー」を考える時、「社会からの是認」は重要な視点で、これが否定されるとき「アイデンテティー確立」は不確かなものとなり、アイデンテティーの曖昧さから青年期危機――前項のホールの青年期心性の特徴の部分に立ち戻って、こころのベクトルがマイナスに振れていくと仮定して見てください――に陥っていくことは容易であるように思えます。
ライフサイクルの青年期におけるメンタルヘルスという観点から見ると、「アイデンテティー危機」は精神的な問題(病気も含めて)を発生させる一つの因子とみることができます。「自分らしい生き方が分からない」「だから、どうしてよいのか分からない」と訴える青年が、精神科診療所に時折来院します。症状の中心には無気力・無感動といったものがあり、耐えがたい苦痛がない分、他に救いを求めることが少ないと予測できます。ですから受診の動機も、日常生活の行動異常が他者の知れるところとなり、親・友人にすすめられて、というケースが多いのが特徴でもあります。(行動異常には盗み・性的逸脱・拒食・過食などの陽性の行動化と、社会参加の放棄・ソフトなとじこもりなどの陰性の行動化があり、後者は必発の症状とされています)
外見から病気と理解されにくく、身体の症状が出るわけでもないし、生活の全面から退却する行動化でもないので周囲は深刻視してくれず、ともすれば「なまけもの」「サボリ」のレッテルを貼られることもあります。長引けば「社会参加の放棄」や「社会からの脱落」を招き、場合によっては人格的な問題へと発展していきます。
「民族的アイデンテティー」とは単に「民族心」の証明をさす言葉ではなく、私たち在日韓国・朝鮮人にとっては、培ってきた歴史と将来のあり方を示す言葉であり、日本社会と在日社会の政治的関係性を現す言葉であり、個人のメンタルヘルスにとってはその人格形成に必須不可欠なものであるわけです。
在日同胞青年が「危機」に立つ時、彼らを救うのは「民族的アイデンテティー」そのものなのかもしれません。
在日同胞のメンタルヘルス3
初回に予定しましたように、今回でこの企画も終了です。3回目の今回は『中年期』(成人期)について考えたいと思います。本誌の読者もおそらく「中年世代」が多いのだろうと予想しまして、まずは在日同胞の中年世代の実像を客観的なデータで報告したいと考え、資料らしきものをと探してみたのですが、残念ながら在日韓国・朝鮮人の生活の実態(どういう職業に就き、どういう世代形成で、どれほどの収入を得ているのかなど)が調査された形跡はなく、在日社会全般を捉えて考えることは断念せざるを得ませんでした。定住が始まって半世紀が経過しても、未だ私たち主体者の立場からのそういった調査・分析がなされていないという現実は、多くのことを私たちに示唆してくれてます。
◆中年(成人期)に立つ位相
一言で成人期と言いましても一般的には大体30歳ころ〜65歳ころまでを指していいますので、大変長い期間であるわけです。ライフサイクルから見ると社会生活においては働き盛りの時期であり、家庭生活においても子どもを産み育てあげる時期です。自己の内実においてもしかりで、『生殖性』(種々のものを生み出していくこと)が高い時だと見ることができます。
余談になりますが、孔子は「論語」の中で『30にして立つ、40にして惑わず、50にして天命を知る、60にして耳順う』と、この成人期が「自立」と「不惑」と「天命」の時であると説きました。西洋では発達心理学の研究者であるレビンソンが成人期を自然の四季にたとえ、人生の「夏」「秋」と表現し、有名な心理学者ユングは、40歳を「人生の正午」と呼んだのです。
このように一見人生の充実期にあたるかのように見える成人期にもやはり「危機」があります。いわゆる「中年の危機」です。昨今この「中年の危機」が何かと取り上げられますが、実は昔から知られていることで、男性の厄年が42歳とされていることは、それなりの所以のあることらしいのです。今回は、40歳こと〜50歳すぎの時期にしぼり「中年の危機」の様相を整理して見ます。
まず、身体的には40歳ころをピークにして以降は体力・気力の低下が見られ、プロスポーツ選手などを見ますと、40歳ころまでに引退することが多いようです。(プロレスなどは一部例外と見た方が良いようです)また、女性の40歳をすぎての出産は、高齢出産とされ、通常の出産とは区別されます。加えて女性の50歳前後には更年期が(個人差あるものの)訪れ、更に大きな身体変調が生じやすくなります。そして、この時期には生活習慣病などの病気が顕在化してきて、日常生活上の節制を求められたりする場合も出てきます。身体面ではこのころに「老化」を意識しだす人が多いのではないでしようか?
次に「中年の危機」の心的問題ですが、孔子があえて「40を不惑」としたのは、40歳のころという時期が惑う時期であるからなのです。前回に述べました青年期の「アイデンティティー危機」を乗り越え、自らの選択してきた職業や配偶者、培ってきた価値観や家庭、そしてこれらを対象として見出してきた「生きがい」といったものに「果たしてこれで良かったのだろうか」という迷いが生じる、その一方で今まで排除してきたり、見過ごしてきたかもしれない対象に可能性の予感を感じ、本当の自分のあり方や行き方はこの別の可能性の方にあったかもしれないと自分の内的世界に問い始める、そして、更に進んでいくと今まで築き上げたものが価値を失い、外的な現実に意味が無くなっていく、こういった葛藤的心性は「アイデンティティーの再混乱」とも呼ばれ、これが「中年の危機」なのです。その結果、現実社会からのドロップアウトを招いていく場合もあります。突然の退職・蒸発・離婚・自殺(男性では、40歳代の自殺率が最も高い)などの中年期の社会的破綻がそれです。ここでも「アイデンティティーの問題」が関係してくることを見ますと、この問題が如何に大きく人の心を支配するのか再度考える必要を感じます。
◆「本国の中年」と「在日の中年」
ところで読者の皆さんは最近話題の「ペパーミント・キャンディ」という映画をご存知でしようか?関西では12月初旬に上映予定ということですから、まだご覧になられていない方がほとんどだと思います。こう書いている私もまだ映画を観ておらず、映画の製作パンフを読んだだけなのですが、とても興味深い内容でしたので是非この映画を介して韓国の中年世代について考えてみたいと思ったのです。
映画は冒頭、40歳のヨンホという男性が、20年前人生の最も光り輝く瞬間を迎えたその場所で自殺するというシーンから始まり、死ぬ瞬間から時間軸を逆行させ、ヨンホの過ぎ去った20年間の中の。生き方の選択を決定づけるような7つの場面が描かれていくというもので、背景として韓国政治情勢が主人公の人生にいかに重大な力を及ぼしていったかについても真正面からとらえられており、本国内ではリピート運動がおこるほどの支持を受けている映画だそうです。
この映画を本稿の主題である「中年の危機」という視点で見ますと、死の間際、ヨンホは自分の人生をフラッシュバックさせ「一番大切なものは何だったのか?」と自らに問い、自己の内部の対立の葛藤に耐えかね、妥協と堕落の人生に終止符を打つ、という風に見ることができ、前項で述べました中年期の社会的破綻がそのまま描かれているようにも見えます。そして、この映画がまさしく韓国の中年を描いているという特徴は、ヨンホの振り返る20年の人生とは、「光州抗争」からはじまり「民族統一」を目前とするという激動の社会政治情勢に振り回され、破壊させたものであったという点にあるように思えます。そして、この点については自殺したヨンホに限らず、韓国社会に生きる中年世代の誰もが共通して持つ特徴のように感じられてなりません。(パンフレットを読んだだけで、ここまで語って良いものかと反省しながらも、映画を観ないうちからとても胸痛む思いがしたことを言い訳にします)
さて、「在日の中年」についてですが、40歳〜50歳すぎといいますと、二世・三世が中心で、この世代の特徴としては「一世のあとを継ぐ世代の最後」であるということがまず第一にあげられるのではないでしようか。言うまでもなく中年期は老年期と青年期をつなぐ橋となる時期、言いかえれば次世代に新しい課題を橋渡しする役割をする時期です。この「橋渡し」が私たち在日同胞にとって何なのかを少し考えてみることにします。
中年が自らを親という立場に立つ時、それまで意識下に抑圧されていた自分自身と親との養育関係における心理的葛藤が再び呼び覚まされ、生きづらさに苦しんだり、養育拒否や虐待を継承するケースがあります。現在の日本社会では一種の社会現象かと思われるほど、この「過去の親との養育関係に、今の自分の生きる苦しさの原因がある」と自覚する人=アダルトチルドレンと自認する人が増えています。精神科診療所にも、この問題を抱えて多くの人がいらっしゃいます。また虐待死のケースも多く報告され、社会問題となっています。
ここで少し考えてみます。「在日中年」は植民地支配と解放、その後の被差別民族としての生活を強靭な生命力で生き抜いた一世を親に持ち、その親の有無を言わせない支配の下で生育してきたと言っても過言ではありません。そして、その成長期に家庭・親・家族は充分に機能していたのか、子どもとして授けられて当然のことがキチンと与えられていたのか、在日中年が子どものころ、親との養育関係はスムーズだったのか、言うまでもなく答えは殆ど「否」と言ってよいでしよう。では在日中年は「総アダルトチルドレン化」しているでしようか?この答えも「否」であります。(勿論そういう人もいます)
私は、この点に「在日中年」の特徴を見出したいと思いました。エネルギッシュなパワーで生き抜いてきた一世たちの背中を見据えながら、共に苦しい時代を生きてきた者として、その立場性・時代性を受け入れ、「在日中年」として生きる。そして、次の世代へと「橋渡し」をしていく、マルでサンドイッチのパンとパンの間の具のような存在、これこそが「在日中年」の特性であると言えるのではないでしようか。
在日社会も多様化し、中年から見れば、ある意味で今の若者がかって時代とは違う困難の真っ只中にいるように見えるときがあります。在日社会が急速な変化を経験すればするほど、世代間の断絶もまた大きくなります。「一世の闘う姿」を知る証人としての「橋渡し」はとても重要な意味を持ちます。在日中年のみなさん!ともに生きましよう。(了)
朴 月